尊王攘夷の志篤い、伊東甲子太郎の同志
佐野 七五三之助
生没 天保五年〜慶応三年六月一四日
本名(諱) 寺西内蔵之丞→佐野七五三之助、諱は重之
出身藩 尾張藩領、海東郡須成村 (現蟹江町)
京での役職 平隊士
流派 北辰一刀流剣術
七五三と言うと3、5、7歳になった子供が神社などでお払いをして厄を祓う行事ですよね。この行事の場合は「ひちごさん」と読みますが、佐野七五三之助の場合は「しめのすけ」と読みます。
<志高き青年>
佐野七五三之助は本名を寺西内蔵之丞と言い、尾張藩領海東郡須成村(現在の愛知県蟹江町)の神職の寺西伊予守家班の長男として生を受けました。
嘉永三年に父の家班が55歳で没した後、寺西内蔵之丞から佐野七五三之助と改名します。そして住み慣れた尾張を出奔して江戸へ行きます。出奔の理由は、尊皇攘夷をする為には尾張に留まっていては出来ないと思ったからでしょう。
その後水戸学を学び、当時流行していた北辰一刀流剣術を学んだりしました。その時期に伊東大蔵(伊東甲子太郎)、加納鷲雄たちと知り合い、交流を深めました。
文久三年に加納たちと横浜の勤武所に入門し、武芸に励みました。
その翌年の一月には加納鷲雄、篠原泰之進ほか同志11人と共に、神奈川奉行所の配下として異人館警備について、時期を待ちました。
翌年の元治元年十月に、江戸に来て隊士募集をしていた近藤勇、藤堂平助の新撰組隊士募集に応じて、伊東、加納、篠原たちと共に上洛をしました。
<新撰組隊士、そして・・・・>
新撰組隊士となった七五三之助は存分に働きますが、尊王攘夷思想は抱き続けていました。
しかし慶応三年三月に伊東甲子太郎が、孝明天皇の墓所を守る名目で禁裏御陵衛士(孝明天皇御陵衛士)を拝命し、公然と新撰組と決別をしました。
しかし、伊東一派の中枢として志を同じくした七五三之助は御陵衛士にはならず、間者(スパイ)として新撰組に残留します。しかしそれが、彼の運命を決定づけました。
慶応三年六月十日に幕府は新撰組隊士全員を正式に幕臣に取り立てる決定をしました。
この幕臣取立ては江戸幕府史上で特筆すべき事です。今まで農民や町民などが幕臣になる事はありませんでした。新撰組は農民、町民、浪士で出来た集団でしたので本当に異例中の異例でした。これも幕末の動乱期がなせた事なのでしょう。
しかしこの幕臣取立ては、勤王思想の強い伊東一派の残留組の佐野七五三之助、茨木司、中村五郎、富川十郎、他6名の隊士にとっては了承出来るはずもありませんでした。ついには同志達と離隊する決意をしました。
しかし、新撰組は局中法度によって勝手に離隊する事は許されていませんでした。
その為、正式に離隊して御陵衛士に合流する良い方法を聞く為、伊東甲子太郎に相談します。
しかし伊東から「今は新撰組と表立って事を起こしたくないので、ここは会津藩に駆け寄って正式に除隊を願ってはどうか?」と言われ、仕方なく会津守護職邸に赴いて、除隊の嘆願書を提出します。
しかし、会津藩から嘆願書を受け取った局長の近藤勇は「何とか残る様に説得をしてください」と会津藩の諏訪常吉に頼みます。
それから諏訪の説得は続きましたが、七五三之助らは着隊しても切腹になる事を理由に拒否し、話は平行線をたどりました。そして翌日の近藤勇の説得によって渋々幕臣になる事を引き受けましたが、七五三之助らはこの時点で死を覚悟していたそうです。
その後、自分達と引き換えに6名の隊士の除隊を許されたのを見届けると、会津藩の役人に「4人だけで話をしたいので、少し一間お貸し下さい」と言い茨木司ら4人で部屋に入ってゆき、彼らは切腹して果てました。享年34歳。
当然会津藩邸は大騒ぎになり、何とか切腹した彼らを手当てしますが助けられず、新撰組に亡骸を引き取ってもらいました。
その時、七五三之助は常人では想像もつかない壮絶な最期を遂げます。
なんと、遺体を引き取りに駆けつけた諸士調役の大石鍬次郎に向かって斬り付けたのです。
その時の七五三之助の状態は、もう切腹していて喉元に小刀を刺している状態だったそうです。普通ならもう息は無いのですが、大石が来た時にムクっと起き上がり、喉元に刺さっていた小刀を引き抜いて彼の眉間に斬り付けたそうです。
恐ろしく凄い執念です!
その斬り付けられた大石鍬次郎は動揺して随分斬られてしまいますが大事には至りませんでした。
その光景を見て驚いた隊士達は慌てて七五三之助に斬りつけますが、もう息は無かったそうです。
六月十五日の午前7時過ぎから隊士70名位の参加で葬儀が行われました。七五三之助の生家が神職と言う事もあって葬儀は神葬だったそうです。
そして新撰組の菩提寺である光縁寺に埋葬されましたが、翌年三月に同志達によって東山の戒光寺に改葬されました。
七五三之助の訃報は故郷の名古屋にも伝わり、故郷で彼の死を惜しむ人達によって神葬がとり行われました。