童子山より七州を望む!

挙母 七州城

築城人物     内藤 学文
         天明二年(1782年)築城
主な城主     内藤氏 (挙母藩)
城の種類     平山城

関係人物     内藤 学文
         安藤 早太郎貴果 (新撰組助勤)


場所       愛知県豊田市

(七州城隅櫓)

豊田市の市街地を通る国道153号線(飯田街道)を西上すると、小高い山の所に豊田市美術館があります。その美術館の周りの道から見える城が七州城隅櫓です。
廃藩置県後(明治5年)に隅櫓の石垣のみ残して建物は撤去されましたが、豊田市が昭和53年に七州城隅櫓を再建しました。郭は、豊田市美術館と隣の豊田東高校のあたりまであったと思います。
この挙母の地は市街地に流れる矢作川の水害に悩まされた苦難の街でした。近年の伊勢湾台風も水量の豊富な矢作川は氾濫し、市街地は壊滅的な打撃を受けました。


挙母の地は当初
三宅氏が統治していましたが、三宅氏が田原に転封になり、次に本多氏が入封しましたが、三代続いたあと幕府領となり、寛延二年(1749年)に上野國(群馬県)安中より2万石で内藤政苗(ないとうまさみつ)が移封して挙母藩が再び立藩しました。その時に三宅氏の築城した桜城を改築しようとしていましたが、明和四年(1767年)七月十二日に起こった水害の為に計画は上手くいきませんでした。



                
<童子山に城を築く>

明和三年(1766年)に紀州徳川家より入婿して政苗の跡を次いで城主となった内藤学文は、水害の多い桜城を嫌って幕府に願いを出し、桜城から近い童子山(樹木台)の地に七州城を築城させ、天明二年に無事完成しました。ですが、天守は造られぬまま明治を迎えました。


七州城の名前の由来は、城の建てられた童子山の標高が65mの高台にあった為に非常に眺めが良く、三河はもちろん尾張、美濃、伊勢、信濃、遠江、近江の山々が眺められたところから付けられたそうです。

確かに空気が澄んでいる昔ならば、この地から山々を見る事が出来たかもしれません。そう思うと現代は空気が淀んでいるんだな〜っと、少し残念な気になりました。


幕末にはこの挙母藩から様々な俊英が輩出されました。新撰組副長助勤の
安藤早太郎や挙母藩士の海老名三平、根本霊麻呂などはその代表的な人達です。









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