水害に泣いた城

挙母 桜城

築城人物     三宅 康貞
         慶長九年(1604年)築城
主な城主     三宅氏 本多氏 内藤氏(挙母藩)
城の種類     平城

関係人物     内藤 政苗
         三宅 康貞


場所       愛知県豊田市

豊田市の市街地にある豊田市役所の近くの元城町にNTT豊田電報電話局があります。
その北隣に櫓の石垣が在る小さな公園がありますが、そこが桜城のあった場所です。
今では区画整理が整い、昔の風情はあまり残ってはいませんが、石垣が当時の記憶を呼び覚ましてくれる感じがします。

城の名前の由来ですが、城主となった三宅康貞が場内に桜の樹を植えたからと言う話から来ているそうです。漢字では別名で
佐久良城とも書きます。



この挙母の地を統治する事になった
三宅康貞は、武蔵国瓶尻5千石から1万石を加増されて、慶長九年に衣(挙母)に入封しました。
元々、この三宅康貞は衣(挙母)の
梅坪城主(豊田市梅坪町)として徳川家康に従っていました。そして武功が認められて天正十八年に武蔵国瓶尻に5千石を賜りました。そして加増され、再び衣の地に戻ったと言うわけです。

康貞はこの地にあった
金谷城に入りますが、あまりにも老朽化が激しかったので新たに桜城を築城します。城とは言っていますが、厳密に言えば城ではなく陣屋でした。
三宅氏自体は城主格大名でしたが、あまり財源が豊富ではなかった為に陣屋にしたのだと思われます。
そして、この時期に挙母の市街地の原型を形成してゆきました。この市街地の形は車の街、豊田市となった現在も変わりなく発展を続けています。
その後三宅氏は
伊勢国亀山に転封しますが、寛永十三年に再び衣(挙母)城主となり、寛文四年に田原(愛知県田原市)に転封となり、三宅氏の統治は終わりました。

その後
幕府領となったのち、天和元年に陸奥国白河藩主本多氏の分家である本多忠利が1万石で入封して統治しました。
その後、本多氏は寛延二年に
遠江国相良へ移封となり、変わりに上野国安中から2万石で内藤氏が入封しました。

入封した内藤政苗は、三宅氏の築城した桜城を改築しようと工事に取り掛かります。今まで統治してきた三宅氏と本多氏の陣屋を拡張する形で工事を行いましたが、規模としては陣屋の頃の約7倍と言う立派な本丸を建築しました。
宝暦元年には縄張りが行われましたが、宝暦二年に
強訴(芋八騒動)が勃発し、続いて藩で内部抗争が起きた為に普請は中断を余儀なくされました。そして追い討ちをかける様に、明和四年(1767年)七月十二日に起こった水害の為に計画は頓挫してしまい、ついに桜城を廃城にして新たに城を築城する事を決意しました。




                
<そして廃城へ・・・>

明和三年(1766年)に政苗の跡を次いで城主となった内藤学文は、水害の多い桜城から童子山(樹木台)に新たな城を築城する計画をします。
そして
樹木台に仮の御殿が完成します。桜城が水害などで機能しなくなった時に使用する御殿として機能しました。
しかし、安永9年に
童子山への城機能移転を幕府に正式に認められ、廃城となりました。
ちなみに桜城が機能していた頃の
樹木台御殿は、天明七年に開校した藩校崇化館(そうかかん)として利用しました。




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