大給松平氏、飛躍の地
大給城
築城人物 長坂 新左衛門
築城時期は不明
主な城主 長坂氏、安城松平氏(大給松平氏)
城の種類 山城
関係人物 松平 乗元
松平 乗次
場所 愛知県豊田市大内町
愛知県豊田市の松平郷にほど近い所にある山城です。
周辺には巴川支流の滝川が流れており、地形的には焙烙山と六所山の西側に位置しています。
大給は「おぎゅう」と読みます。この変わった読みは、周辺に荻が生えていた事から読まれた「荻生」(おぎゅう)がなまった説と、山や川に挟まれた急な地形を指す言葉の「キューブ」から来た説の二つが考えられます。
豊田市街地から松平郷方面へ車で30分くらい行くと、松平郷の手前に、「大給城址」の看板が目に入ります。その看板の方へ曲がり急な坂道を上って行くと城址への道が見えてきます。
標高が207mある所に築城した典型的な中世の山城です。
<松平郷に近い山城>
詳しい築城時期は判っていませんが、当時一帯を支配していた長坂新左衛門と言う人が加茂郡の当地に築城したと伝えられています。
三河物語では応仁、文明年間(1467年〜1487年)までには松平氏の城となったと伝えています。
確実に判る事は、16世紀の始め頃に松平家四代目で安城松平氏の松平親忠が攻略し、次男である松平源次郎乗元(一説では親忠の次男ではなく、三代目松平信光の次男)に与えた事です。この松平乗元こそ大給松平氏の祖となる人です。
永正七年(1510年)に乗元と子の乗正は城を修築して、拠点を大給に移しました。城域は東西300mで南北が200m位だったと言われています。
そして大給松平氏は大給城を拠点に周辺を統治しました。
しかし天正三年に滝脇(豊田市滝脇町)の松平乗高(滝脇松平氏)によって落城してしまいますが、のちに再び大給松平氏が支配しました。
<移封、廃城、そして立藩>
天正十八年に六代目家乗は、徳川家康の関東移封に従って上野国に1万石で封じられたのを機会に、大給城は廃城となり長い歴史を終えました。その時に一族の中から多くの大名家と旗本を輩出しました。
一時期幕府領となった後、寛永四年に旗本の大給松平乗次は三河国、丹波国合せて6千石を知行します。
その後、大阪定番となった乗次は摂津国、河内国(大阪府)7郡、合せて1万石を加増されて1万6千石となり大名となりました。
最初は関西や関東に飛び地が多くありましたが、「どうせ頂くなら、祖父達がいた大給の地にして欲しい」と幕府に願い出て領地替えをしてもらいました。
その結果、本領は三河国加茂郡大給になり、居所は再び大給城になりました。ここで祖先の地である大給で大給藩を立藩しました。
大給藩の大給城支配は、初代の乗次→二代乗成→三代乗真の三代まで続きました。
しかし、山城で交通の便が悪い大給城は戦の無くなった平和な時代には不便極まりない城でした。そこで三代目の乗真の時、居所を近場で交通の便の良い碧海郡の奥殿(奥殿陣屋)へ移しました。
その為、大給城は完全に廃城となり、藩の名称も大給藩から奥殿藩に変わりました。
そして居所の移転と同時期に、本領三河国以外の全ての所領(摂津、河内、丹波、常陸国:1万2千石)を信濃国佐久郡(長野県)へ移しました。
<明智新八、思い書き>
大給城は意外に遺構が残されていて、当時の面影が少なからず残っている城址です。
初代大給藩主の松平乗次のお墓や、石垣などは面影があり見ていて楽しいです。お弁当を片手に城を探索するのも良いと思います。
しかし山城と言うこともあり、探索には一応の装備をした方が良いと思います。
夏場は蚊が多いのはもちろんですが、場合によっては蛇が出てくる事もあるそうなので用心して探索をする事をおススメします。
入り口あたりに車を止めれるスペースはありますが、勾配になっていますので、駐車の際は輪止めをして駐車して下さい。
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(写真をクリックすると城内を見れます)