矢場地蔵で有名になる

小林城

築城人物       牧 長清
            天文三年(1534年)
主な城主       小林氏

城の種類       平城

関係人物       織田 信長
             牧 長清

場所          愛知県名古屋市中区大須

愛知県名古屋市中区の中心地を走る大津通り前津通り沿いには、大須上前津矢場町と言った名古屋では有名な町がたくさん有ります。もちろん地元の私も大須や矢場町はよく遊ぶ所です。
しかし
「この上前津から矢場町にかけての間(大津通り沿い)に城址がありますよ」と言われても分からない方が多いかもしれません。
その城の名前は
小林城と言い、現在では清浄寺と言うお寺が建っています。別名は矢場地蔵とも呼ばれています。
位置は大津通り、前津通りに挟まれる所の、大須と矢場町の境目にある
若宮通りの交差点近くにある小さなお寺です。そこに小林城址を伝える看板があります。
実はここも
織田信長と縁のあるお城です。では、小林城の歴史を見てゆきましょう。



               
<尾張守護の一族が城を築く>

前津(
上前津、下前津)の名の由来は当時、古渡のあたりまで入り江があり、このあたりの港を「まへの津」(津とは港の意味があります)と読んでいた事から前津と呼ぶようになったと言われています。
今の大須や上前津の様子からは想像がつかないでしょうが、織田信長が活躍していた当時は海が目の前にある所だったんですね〜。

その前津村は戦国時代には
前津村小林村が統合され前津小林村と呼ぶ様になります。
前津小林4千石を領したのは尾張守護
斯波氏の一族の牧与三左衛門尉長清で、ここに小林城を築いて治安維持に励みました。
そして牧長清は織田信長の妹を妻にしていた事から織田氏の一門として所領を安泰されました。彼は信長の義弟でありましたが遠征に行った様子は無く、おそらくは尾張守備を任せられていた旗本だったと思われます。
そして長清の妻(信長の妹)は周囲の人達から敬愛され、「
小林殿」と呼ばれていたそうです。



              
<廃城の後、尾張柳生の祖の屋敷となる>

長清は老後に
仏門に帰依(僧侶なる事)しますが、彼が亡くなると小林城は廃城となりました。
その後、天正12〜13年頃には前津小林領は
土方彦左衛門が治めましたが長く続きませんでした。
そして時代は徳川の世となり、
尾張藩が統治するとこの辺りは一気に華やかになり、矢場や武家町や商人町や寺町などが置かれ、その辺りに住む武士たちを人々は「小林武士」と呼ばれたそうです。
そして近くの
富士見原には尾張藩公認の遊郭まで設けられました。(これが大須の原型ですね)

小林城のあった所には新たに
清浄寺が建てられ、かつての城主であった牧氏の一族はここに眠っています。

そしてここは
矢場地蔵として有名なお寺となり、その清浄寺の離れには城跡を守るかのごとく、名の知れた剣豪の屋敷となりました。
その剣豪とは、尾張藩二代目藩主の
徳川光友の剣術師範を務めた柳生新陰流(尾張柳生)の達人である柳生兵庫助利厳と息子の厳包(連也斎)です。
厳包は父の
利厳から尾張柳生の秘伝を伝授され、尾張藩以外にも全国的に名の知れた存在になっていました。
それでも彼は決して驕りたかぶらず、落ち着いた心を持った人格者でした。
しかしそんな彼には悩みがありました。
将軍家の指南役として仕えた兄
利方よりも「弟の連也斎(厳包)の方が腕が立つ。彼が日本一の剣豪だ!」と評価された為に兄に負い目を感じてしまったのです。
結局彼は兄と
江戸柳生に遠慮がちになり、今後の災いの元になりかねない事から自分の子孫を残さない様にと一生女性を近づけないで一生を終えています。なんだか悲しい話です・・・



              
<明智新八思い書き>

矢場町のパルコから大須へ向かう途中にあるお寺で、目の前には大須名物の「矢場とん」があるにもかかわらずあまり目立たず、ひっそりと矢場地蔵が町を見守っている感じがします。
近くに遊びに来た際はふらっと清浄寺に立ち寄るのも良いかもしれません。
人や車が多い大須の町で、清浄寺の一角だけは静かでのんびりとした時間が流れている様に私は感じました。人ごみに疲れた時の気分転換におススメです。





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(小林城主 牧一族と小林殿のお墓)




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