松平家発祥の地!

松平郷

関係人物     松平 親氏
         松平太郎左衛門家
            
場所       三河國加茂郡松平郷
         (愛知県豊田市松平町)

愛知県豊田市の市街地から車で30分くらい進んだ所に松平郷があります。松平郷は豊田市松平町内にあり、近くに矢作川の支流の巴川が流れ、焙烙山六所山の西麓に位置しています。
あの徳川家の元となった松平家の発祥の地と言うこともあり、歴史好きなら一度行ってみたい史跡だと思います。


               
<松平郷の始まり>

元々松平郷は
賀茂郡足助荘外下山郷と呼ばれていました。
弘安年間(1278年〜1288年)か康永年間(1342年〜1345年)のどちらかの時代に、
在原業平の子孫の公家の武士である信盛という名の武士が当地を治める事になり、松の樹が多く茂っている様子を見て「松平郷」と言う名前に変えました。
信盛は屋敷を現在の
松平東照宮の境内周辺に設け、周囲の村や道、農地などを自ら開拓しながら統治しました。
子の
信重の時代には賀茂郡9ヶ村、額田郡6ヶ村を治める領主に成長しています。

ある日、信重の治める松平郷に一人の若い旅僧侶が訪れます。彼の名前は
徳阿弥と言います。
ちょうど彼が訪れた日に歌会をしていたのですが、
筆役(歌を書く人)が居なくて困っていました。そこで信重は徳阿弥に筆役を依頼し、見事に役目を果たします。その事が縁で徳阿弥は松平郷に留まる事になり、人格を見込まれて信重の次女である水姫婿養子になります。その時に還俗(僧籍から俗世間に戻る事)して、姓を新たに松平にし、名を太郎左衛門親氏と名乗りました。その親氏こそが松平家の初代となりました。

その後、屋敷を城砦化して拠点として新天地開拓に励みました。
この親氏は大変徳のある仁君で、自ら農道具を持って田畑を開墾したり、道路を作ったり整備したりしたそうです。そうした働きがあってからか益々発展してゆき、その子孫の
徳川家康は天下を取るに至りました。


              
<松平郷を守った人達>

親氏以降子孫は多くの分家を作るようになり、三河一帯を支配してゆきました。
松平郷を守った家は「
松平太郎左衛門家」と「松平次郎左衛門家」です。実はこの松平家が全ての松平家の宗家で、戦争で負傷した親氏の長男の松平信広が松平郷を守りました。

弟の
松平信光は分家して岩津(岡崎市岩津町)に移りますが、彼の子孫には征夷大将軍となった徳川家康の「安祥、岡崎松平家」があります。
信光の時代に8つの松平家(
竹谷、形原、大草、長沢、能見、五井、深溝、大給)が分家しています。



さて松平郷を散策してみましょう!

松平親氏の屋敷の跡地には
松平神社があり、境内に松平東照宮松平郷館家康公の産湯の井戸があります。
なんと凄い事に、
家康公の産湯の井戸の水は東照宮内で購入して、飲む事が出来ます!私は地元と言う事もあり、お払いや初詣は必ず松平東照宮ですし、産湯の井戸の水もよく飲んでいます。
松平神社を出ると直ぐに
親氏公誓文碑が見えます。左右に大きい石の柱の道があり、そこを行くと松平親氏公の凛々しい銅像が旅人を祝福してくれます。

また本道の
室町塀の坂道を上ってゆくと中腹に冠木門があります。門を潜るとそこには武家屋の敷雰囲気がある「天下茶屋」と言う食事処があります。お抹茶、コーヒー、ぜんざいの甘味から、うどん、蕎麦などの食事も出来て大変おススメな処です。名物の「天下もち」は超絶品です。
松平郷天下茶屋さんのお問い合わせは、(0565)58−3725です。

天下茶屋」さんを出ると、直ぐ横に「見初めの井戸」と言う井戸があり、井戸の隣には自然豊かな綺麗な小川が流れていて、心が洗われます。
そのまま坂道を登り続けると、松平家の菩提寺の
高月院が見えてきます。高月院内には松平氏の墓所があり、初代の親氏や二代の泰親、四代親忠夫人のお墓があります。

とても自然豊かで歴史の宝庫の松平郷は、とても奥の深い史跡です。




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