流鏑馬をしていた由緒在る神社
猿投神社
創建時期 不明
(一説には3〜5世紀頃)
祭神 大碓命、景行天皇、垂仁天皇ほか6柱
神階 正一位
場所 愛知県豊田市
(猿投神社正面から)
愛知県豊田市の猿投山の麓にある由緒在る神社で、貴重な文化財を多く所蔵する所です。
歴史は相当古く、神話の世界から有ると言う噂もあります。その噂の元となる話は、猿投山には大和武尊(ヤマトタケルノミコト)の兄のお墓があると言う話から来ています。
しかし周りの古墳群から推測するに、少なくとも西暦3〜5世紀には社があったと思われます。
その証拠に朝廷の加護を受けており、仁寿元年10月7日には従五位下の神階を得ていて、貞観六年、貞観十二年、貞観十八年、元慶元年に次々と神階がのぼり、「三河國内神明名帳」には正一位猿投大明神と書いてあります。
元々、猿投神社は猿投山南麓にある本宮と山上東峰の東宮、西峰の西宮の3社を併せて猿投三社大明神と呼ぶそうです。明治時代に三社を一箇所にまとめて現在の猿投神社の様になりました。
深い歴史を持つ猿投神社は数多くの加護と災難にあいながら現在に至っています。
まず鎌倉時代では高橋荘(愛知県豊田市高橋)地頭の御家人である中条氏の保護を受けて社領寄進など支援をしています。
戦国時代になると、天文三年6月22日に岡崎城主の松平清康(徳川家康の祖父)によって攻撃され、9つの堂塔が焼かれてしまいました。その後、梅坪城主の三宅氏や那須氏などが再建させています。
永禄四年に織田信長が尾張統一の一環で三河の高橋荘を支配下に入れると、信長は猿投神社を手厚く保護します。
天正四年には織田家臣の佐久間信直によって人夫役(徴兵や直接労働の税)を免除するなど、神領の保護をしました。
天正十四年7月には尾張を統治する様になった信長の次男の織田信雄が検地を行い社領を375貫300文
し、次いで天正二十年の太閤検地には776石余という広大な社領を与えて保護しました。
その後、猿投神社では棒の手、流鏑馬、火縄銃奉納、献馬を盛大にする様になりました。
その当時、棒の手は警固と呼んでいました。元々は防衛の手段だったと言う事が名前から見て取れます。
後に神に奉げる郷土芸能に変化して繁栄しますが、明治維新後の神仏分離の影響を受けて大半の流派は廃れてしまいました。
しかし現在では三河を代表する文化財に登録され、豊田市は猿投神社の近くに棒の手会館を建設して棒の手の保護を図っています。
この猿投神社では幕末まで流鏑馬(やぶさめ)をしていました。
弓の名手であった新撰組隊士、安藤早太郎も挙母藩士時代に猿投神社で流鏑馬を奉納したそうです。この事実は挙母藩の公文書を調べて分かった事ですが、肝心の猿投神社の記録には一切記述がありません。
それは、残念な事に時代が明治へと移ろうとする寸前に、証拠となる書物が大火によって全て焼失してしまい流鏑馬やその他の記録一切が無くなったからです。
しかし、個人的に神社に訪れた際に神主さんから「挙母藩と梅坪村の人が熱心に流鏑馬をしていた」と言う話を聞く事が出来たので少しは収穫がありました。