家康公、初陣の地
寺部城(陣屋)
築城人物 鈴木 重時(寺部城)
文明年間(1469〜87年)築城
主な城主 鈴木氏、渡辺氏(尾張藩)
江戸期の支配 尾張藩
城の種類 平山城
関係人物 鈴木重時、渡辺守綱
場所 愛知県豊田市寺部町
愛知県豊田市の市街地のほぼ中心を流れる矢作川の左岸側に寺部町があります。
ここは弥生時代から人々の営みがある地区で、奈良、平安時代などには中央政権の支配がありました。
周辺は高橋郷と呼ばれていて、中条氏や鈴木氏などが統治する土地でした。
寺部は三河国ながら尾張国には近く、名古屋へは挙母街道を使って7里で着く事が出来き、近くにある矢作川には渡り船が出て、まさに交通の要所でした。
随分長い間、高橋郷は中条氏が統治していましたが、文明年間(1469〜1487年)頃には衰退してゆき、西三河地区の有力な国人であった鈴木時重は、高橋郷の矢作川流域の台地に城を築城しました。これが寺部城です。
造りはとても強固に出来ていて、迎撃に適した城でした。
この寺部城が一躍有名になった合戦と言えば、江戸幕府を開いた徳川家康の初陣となる寺部合戦です。
この合戦は永禄元年(1558年)今川家に従属していた松平家の松平元康(徳川家康)が、元服したばかりの時、今川家から「寺部の地を落として参れ!」と命令された事に端を発する合戦です。
その背景には、元々今川方に付いていた寺部城主鈴木日向守が、織田方に寝返った為に制裁を加える意味がありました。その先鋒隊に松平家臣団を指名した訳です。
とても鈴木勢は強くて松平勢は劣勢でしたが、何とか挽回して戦いに勝利しています。
その後、永禄六年(1563年)四月二十二日に再び合戦をしました。
家康は2千の兵力を持って車坂、水間で会戦して双方に勝利し、寺部城を手に入れました。
<尾張藩家老、渡辺家の陣屋になる>
その後、徳川家康は天下を統一して幕府を開きます。徳川御三家ができ、寺部の地は尾張徳川家(尾張藩)の領地になりました。
そして、家康の側で常に自慢の槍を振るっていた「槍の半蔵」と言う別名を持つ渡辺半蔵守綱が三河国寺部を統治しました。
家康は守綱を信頼していて、直々に尾張徳川家の幼き当主徳川義直の博役(教育係)に任命し、尾張藩の命運を託しました。尾張藩の重臣(家老格)に列し、領地に思い出の地である三河国寺部1万4千石を知行して入封させました。
以降、寺部城を基にして寺部陣屋が建てられ、渡辺家が尾張藩家老として幕末まで統治しました。
<明智新八、思い書き>
私は小さい頃から寺部の地を観るのが好きでした。
小さい時は歴史が好きではなかったですし、ここが尾張藩の領地で城跡があって渡辺守綱公がいた事なんて当然知らない事でしたが、不思議と近くを通ると胸が躍った事を記憶しています。
その思い出の地を探索してみると発見だらけで感動します。
周辺は城下町だけあって道が狭く、車ですれ違うのもやっとの所が多いのですが、当時の雰囲気を多く残した良い所です。
近くには豊田スタジアムがあって、サッカーやコンサートの時には多くの人がくる所でもありますが、城の近くは住宅地になっていて静かで、時間の流れが少しにゆっくりに思える落ち着く町です。
三河國史跡メインへ戻る