苦難続きの8代目当主

松平 広忠

生没       1526年〜1549年(三河國山中郷)

幼名       竹千代、千松丸

本姓       源

通称       次郎三郎(岡崎三郎)

               <若くして試練を味わう>

松平広忠は苦難続きの人生を歩んだ悲運の人です。正直、何も報われなかった気がするほど苦労が多かった人でした。
唯一報われたと言えば、息子の
竹千代が無事成人して徳川家康と名乗り、征夷大将軍となった言う事ではないでしょうか。しかし、松平広忠の存在を世の人は余り知らない事と思います。


松平広忠は大永六年に三河国山中郷の
山中城(愛知県岡崎市)で松平清康の長男として生を受けました。
時は戦国乱世の時代で、隣国に駿河の
今川家と尾張の織田家と言う強豪に挟まれ、常に緊張状態の続く状態でした。
それでも父の清康は奮戦し、一代で混乱している三河一国を統一して尾張の
織田信秀(信長の父)に圧力をかける程強力な勢力を築いていました。

幼少時は父の奮戦もあって松平家が発展していたので順風満帆に育ちましたが、13歳になった時に運命が大きく変わりました。父の清康が尾張の守山にて部下に誤殺されてしまったのです。世に
守山崩れと呼ばれる悲劇的な事件です。
この守山崩れから広忠は流浪の人生を余儀なくされます。

守山崩れで松平軍は岡崎に撤退しましたが、一週間後混乱する松平領に
織田信秀(一説では一族の松平信定)が兵を率いて領内に進軍します。松平家臣団は団結して広忠の叔父の松平信孝を大将として井田野(岡崎市)で撃退しました。
しかし井田野の合戦後、岡崎松平家の乗っ取りを目論む
松平信定が、隠居していた広忠の曽祖父の松平長忠を騙して領地、家臣団を自分の物にした為に当主である幼い広忠は国を追われてしまいました。
広忠は
阿部大蔵たち七人の家臣だけで伊勢国へ逃げ、再起を図りました。



               <念願の岡崎帰還!>

翌年の天文五年三月十七日に広忠らは遠江国(静岡県)
掛塚に船で上陸し、各地へ手紙を出して仲間を求めました。
その働きの甲斐あって岡崎家臣を味方に引き戻す事に成功、
松平信定と和議を結び、三月二十五日に無事に岡崎に帰還できました。この和議の背景には広忠を擁護する駿河今川氏と東条吉良氏の力が多く作用したものと思われます。お陰で多くの家臣が広忠の元に帰参しました。


天文十年(1541年)に16歳となった広忠は
緒川城(愛知県東浦町)の城主水野忠政の娘で14歳の於大(おだい)と結婚します。そして翌年の天文十一年十二月二十六日に長男が生まれました。幼名を竹千代と言い、後に征夷大将軍となる徳川家康です。

家康は広忠の嫡男ですが一説によると、於大と結婚する前に
大給松平和泉守乗正の娘お久との間に忠政(幼名は勘六)という子をもうけていたそうです。公的に於大の方が正室となった為に家康が嫡子となりました。
於大を迎えた為にお久は
桑谷(岡崎市桑谷町)に住み、家康出生の時と同じくして生まれた異母兄弟を僧籍に入れて、ひっそりと暮らしました。後にこの息子は恵最と名乗り、父広忠が無念の死を遂げた後、広忠寺(岡崎市桑谷町)を建立して父の菩提を弔いました。
もう一人の兄弟
松平忠政は左京太夫の官位を受け、姉川の合戦にて酒井忠次指揮の一番隊に属して奮戦しましたが、若くして病死しています。お墓は岡崎市の法蔵寺にあります。


少しの間平穏な時がきますが、天文十二年七月十二日に義父の
水野忠政が没すると事態は急変します。後を継いだ息子の水野信元が親松平から織田信秀方へ方向転換した為に敵対する事となり、正室の於大の方は実家へ送り返されました。この事は幼い竹千代にとっては母が居なくなると言う事でした。竹千代は心に大きな闇をかかえる辛い少年期を歩む事となったのです。

その後敵対一族の追放をしたり、尾張国境へ兵を勧めたりして何とか父清康に近づこうと奮戦しますが失敗します。


天文十六年(1547年)
織田信秀に重要拠点の安祥城(愛知県安城市)が攻撃されます。
広忠は弟の
源次郎信康と藤井松平家の松平利長、五井松平家の松平忠次、矢田松平家の松平康忠らを援軍に送りますが、織田勢の猛攻に耐え切れずに討ち死にしてしまい大切な家臣と安祥城を失い、一気に力が落ちてしまいました。
この為に西三河の勢力図が大きく変わり、織田方に通じる者達が出てきたので広忠はより一層窮地に追い込まれました。

広忠は状況を好転させる為に駿河の
今川義元に助力を求めます。義元は応じますが見返りに、「嫡子の竹千代を人質に出せ」と言ってきました。仕方なく広忠は竹千代を今川家に送ります。それから竹千代(家康)の人質人生が始まります。
しかし途中に織田方で
田原(愛知県田原市)の戸田氏が竹千代を奪い、織田信秀に送ったので数年織田氏に匿われます。竹千代は兄貴分の信長によく遊んでもらったそうです。この事が後の清洲同盟に繋がったのでしょう。
その後、三河
小豆坂(岡崎市)で今川軍(主将:太原雪斎)と織田信秀軍が激突し今川軍が勝利します。これにて西三河は今川軍が完全に掌握し、松平家は解体はされなかったものの今川家の一軍団として闘う事になります。


                <広忠、無念の死>

天文十八年三月六日、とんでもない事が起きてしまいます。
織田家臣で加茂郡
西広瀬(愛知県豊田市)城主の佐久間全孝が送った刺客の岩松八弥によって広忠が暗殺されたのです。
広忠家臣の
植村新七郎が事態に気付き、すぐに岩松八弥を討ち取りましたが時すでに遅く、広忠は24歳の若さで無念の死を遂げてしまいました。
この事件は父清康の守山崩れにも似ている悲劇的な事件でした。守山崩れ、広忠暗殺に使われた刀こそ、後に妖刀と言われるようになる伊勢国の
村正でした。
ちなみに
三河物語では広忠は暗殺ではなく、病死と書かれていますが、これは真実ではなさそうです。

広忠の遺体は能見原の
月光院(のちに松応寺)に密葬され、お墓は愛知県岡崎市の大林寺大樹寺広忠寺法蔵寺にあります。
この広忠の死から桶狭間を経て松平家独立まで、松平家は苦難の時を過ごします。



                <明智新八 思い書き>

父の
松平清康や息子の徳川家康の陰に隠れてあまり広忠の名が語られる事はありませんが、広忠の名がもっと世に広まったら良いな〜と思っています。

それは家康の父と言う事だけではなく、逆境にありながら滅亡の危機にあった岡崎松平家を必死に盛りたてようと奮戦した姿に好感を持ったからです。

彼の場合は時代と周囲の環境が味方してくれなかったと言う状況でしたが、それでも諦めないで闘い続けた姿は、現代の我々に
「逆境でも諦めずに頑張れ!」と、言ってくれているように思えます。


















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