近藤勇が眠る松平家の菩提寺
法蔵寺
愛知県岡崎市の本宿は江戸時代までは東海道の本陣が置かれた所で、今でも旧東海道が残っている歴史情緒のある街です。
法蔵寺は旧東海道沿いにあるお寺です。新四国35番目の札所であり毎日沢山の人々が訪れて賑わっています。最近では本堂の奥に在る松平家の東照宮や近藤先生の首塚まで足を運ぶ人が増えてきたと、執事さんがおっしゃっていました。
交通アクセスが良く、名鉄本宿駅から歴史情緒溢れる旧東海道を歩いて10〜15分の所にあります。法蔵寺橋という橋を渡るとすぐに砦の様な壁を構えた大きな造りです。
<法蔵寺の歴史>
法蔵寺を建立した人は松平家の祖、松平親氏だと言われています。
法蔵寺が建立される前、当地は出生寺と言う名前でした。
大宝元年の文武天皇の時代、僧の行基は諸国を行脚していました。日本武尊(やまとたける)伝説が残る当地を訪れた行基は、帝から「世継ぎが欲しいので祈願して欲しい」と言う勅命を受けていました。この地で出生の祈祷祈願をしたところ、程なくして皇太子が誕生したそうです。
誕生を喜んだ天皇は当地に出生寺と言う寺を建立して、行基菩薩を開山として開創しました。しかし、規模はとても小さく、その時の植えたイヌマキと言う樹(行基の開山槇)があっただけの小さなお寺でした。
その後長い間荒廃していたのですが、松平親氏が再び当地に寺を建立しました。当時の名前は法蔵寺ではありませんが、代々松平家が保護していきました。
代々の住職を松平家の血縁から出したので、名実共に松平家の菩提寺となりました。
<徳川家康の苦難>
松平家の保護があった法蔵寺は主家の松平家が危機にあった時は、その当主を助ける使命がありました。
松平家八代目当主で家康の父親である松平広忠が西広瀬の佐久間氏の陰謀の為に横死した後、竹千代の身の危機を感じた家臣達によって一時期法蔵寺に預けられました。
元々父の広忠が亡くなる前にも、法蔵寺の住職や家臣の青山氏に学問や遊びの手ほどきをしてもらっていた事もあって、ここを頼ったようです。
今でも当地にはその時、竹千代少年が落書きした机が残っています。この前、法蔵寺の執事さんのご好意でその机を拝見させて頂きました。
城の絵と「松竹千代」と言った落書きです。松平竹千代と書きたかったのか、松竹梅と書きたかったのか判りませんが、大きな豪快な字で何とも微笑ましい落書きですが、大名だけあって城を強く意識していた感じが伺えました。
その後、徳川家康(当時は松平元康)は何度も法蔵寺のお世話になり、桶狭間の敗戦を経て念願の岡崎城主に返り咲きましたが、永禄6年に勃発した三河一向一揆の激戦で、一揆勢に押されていた時に法蔵寺に逃げて匿ってもらったり、近くにある山中八幡宮の洞穴に隠れたりと散々な戦いを経験しましたが、その時も法蔵寺は家康を影から助けました。
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(写真をクリックすると法蔵寺内を探索出来ます)