無の旗を掲げて駆け巡った家康軍の先鋒役!

榊原 康政

生没       1548年〜1606年(三河國上野郷)

主な官位     式部大輔(従五位下)

本姓       源

通称       小平太

               <幼少の時の康政>

徳川四天王の一人で、幼少から家康に仕えてます。幼名は於亀(亀丸)。
天文十七年(1548年)に
碧海郡上野城(現在は愛知県豊田市上郷町上野)に榊原長政の第二子として生まれる。康政以外に兄の清政と三人の女性の兄弟がいます。
幼い頃から康政は、書を大樹寺(愛知県岡崎市)で学び、武芸にも秀でていたと言われています。
当初は父と同様に
上野上村城の城主の酒井将監忠尚に属していましたが、桶狭間の合戦が終わった永禄三年(1560年)岡崎大樹寺で家康に拝謁して気に入られ御側附(小姓)として仕え始めます。

その後三河一帯が戦乱になった三河一向一揆が勃発し、永禄六年に16歳となった
小平太は鎮圧軍の将として石川家成と共に生まれ故郷である上野で戦い、武功を挙げて初陣を飾ります。
その時に大いに喜んだ家康は小平太に一字を賜り、その時に
康政に名を改めました。その時はまだ家臣を持っていなかった康政でしたが、永禄七年(1564年)に初めて3人の与力を附けられました。
常に
本多忠勝と共に先鋒を務めて武功を挙げたので、家康から「兵法を知りたくば康政を見習え!」と言われる程でした。



               
<武功をあげる康政>

姉川の合戦でも武功を挙げ、小牧長久手の合戦でも功績を挙げます。
長久手の合戦での康政は凄まじく、無の旗を掲げて敵陣を突撃し、三河を急襲しようとしていた豊臣方の敵将の
池田恒興、元助親子と森長可を討ち取りました。
それだけでは留まらず、
「秀吉は、信長公から受けた恩義を忘れて子息信孝を滅ぼし、また信雄すら討ち主家を横領しようとする不義不忠の輩で、それに味方するは、武士として間違っている!」など言った高札を立てて秀吉を愚弄しました。
半ば半狂乱となった怒れる秀吉は
「榊原康政を捕らえた者は望みの褒美をとらす!」とまで言わせました。
その後、我に返った秀吉から逆に武勇を賞賛されました。康政が無官なのを知った秀吉の計らいで
従五位下式部大輔に任ぜられました。その時秀吉から、「榊原殿のような武将がいて、徳川殿が羨ましい」と言ったそうです。

数多くの武功を挙げた忠臣の康政は、家康の関東入国の際に家康の三男で後に二代目将軍になる秀忠の御付きとなり、
上野国館林10万石を賜ります。
その後、関ケ原の合戦での秀忠軍遅参のせいで怒った家康が秀忠に会おうとしなかった時、康政は何も悪くなかったにもかかわらず、遅参の責任を一身に背負い、家康の怒りを和らげた話があります。その時に秀忠から
「徳川が在るうちは榊原家を見捨てはしない」と誓った御神文を与えて大変感謝したそうです。



              
<最後まで謙虚な人柄>

その後、家康は康政を水戸二十万石に加増しようとしますが、これを固辞。老中職に就任していましたが
「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言って政治の事は次の世代を担う人々に委ねたと言います。

そして数々の武功を挙げた榊原康政は慶長十一年(1606年)四月に病で床に臥します。
秀忠酒井忠世土井利勝が医師を連れてお見舞いに行きましたが、治らず同年五月十四日に他界しました。享年五十九。
井伊直政と良きライバル関係にあった康政は「直政が先立てば、私も長くないだろう」と言っていたそうです。その言葉は的中し、共に戦い抜いた戦友の井伊直政が亡くなった翌年に康政は逝っています。
逆境にあった松平、徳川家を支え続けて天下を制するまでにさせた縁の下の力持ち的存在で、常に謙虚であった康政はまさに忠臣と言える武将です。












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