徳川四天王、榊原康政生誕の地!
上野上村城
築城人物 戸田弾正左衛門宗光
応仁時代(1467年)築城
主な城主 酒井氏
城の種類 平城
関係人物 酒井 将監忠尚
榊原 康政
場所 愛知県豊田市
愛知環状鉄道、三河上郷駅から県道を岡崎岩津方面に歩いて10分位の所に小さな公園と公民館があります。そこに上野城跡の看板があります。
敷地は公民館の隣に公園と城跡、裏に護国神社と言うように地域生活に溶け込んでいる為に、地元の私も社会人になるまでこの場所が城跡だなんて気が付かない位でした・・・(汗)
確かに、この周辺は城下町独特の狭い路地が多い所です。
なんとここは徳川四天王の榊原康政の生誕の地でもあります。
この城の歴史は応仁時代の1467年に、伊勢貞親の被官の戸田弾正左衛門によって築城されたとあります。
<家康軍、一向一揆で苦戦>
今川家から独立して間もない徳川家康は三河國の統一の為には、寺院に許されていた不入権を剥奪して税を徴収なければ三河全体の統一はできないと考えていました。
その為に強引に徴収しようとしましたが、結果的に一向宗から必死の武力抵抗を受ける事になってしまいました。
この衣(挙母)の地も例外では無く、上野上村城の酒井将監忠尚は一揆側につき徳川軍に弓を引きました。
実はこの酒井忠尚は、徳川四天王の酒井忠次の兄弟で、徳川家では宿老の地位にあった実力者でした。
宿老の地位にあった酒井忠尚は宗教的な意味合いで徳川家に弓を引いた訳ではなく、この混乱に乗じて徳川家康を廃して自分が三河の主となるという野心的な思いで謀反をしました。
三河一帯が大混乱になった三河一向一揆は一向宗による宗教戦争と、その混乱に便乗して有力豪族が反徳川家を掲げて挙兵する二つの思惑が重なる複雑な騒動でした。
この地の騒動は本拠地の岡崎に近く、徳川家を脅かす存在であった為に家康直々に鎮圧に当たりました。
しかし相当激戦だったようで、家康は流れ矢を防ぐ為に近くの隣松寺に鉄製の雲版を背負いながら逃げてきたそうです。
一族の鴛鴨松平家の松平親久、松平忠久は上野に近い鴛鴨村(当時は押鴨)の鴛鴨城(豊田市鴛鴨町)を徳川方の前線拠点として守備し、初陣を飾った榊原小平太らのめざましい活躍などによって何とか永禄8年に鎮圧した家康は、この城に「上野七人衆」と言う在番衆を置いてこの地を統治しました。
そしてこの戦で反抗を続けた酒井忠尚はその後、隣国の今川氏真を頼って駿府に出奔しました。
余談ですが近くに上野下村城があります。後に三河国挙母(豊田市市街地周辺)を統治する内藤家の祖先の内藤義清が治めていた城です。