中条流兵法の祖が建てた城

挙母 金谷城

築城人物     中条景長
         延慶元年(1308年)
主な城主     中条氏、三宅氏
城の種類     平城

関係人物     中条 景長
         三宅 康貞


場所       愛知県豊田市金谷町

愛知県豊田市のほぼ中心地に上挙母(うわごろも)と言う街があります。町内には主要国道155号線と名鉄三河線が通る交通の要衝です。
名鉄三河線の
上挙母駅から歩いて徒歩5分くらいの住宅街の金谷町に挙母城の始まりの金谷城があります。
この金谷と言う地名の由来は、当地に鍛冶師や金物商人が多く住んでいた事からきています。



             
<剣豪中条氏、衣(挙母)に城を建てる>

金谷城
の歴史は、鎌倉時代尾張守護職である中条頼平の子の中条景長が、三河国(当時は尾張国の一部)の地頭として派遣された時に拠点として延慶元年(1308年)に築城した事から始まります。
そして、その中条氏が治めた一帯は
高橋荘と呼ばれました。現在でも高橋の地名は愛知県豊田市の一地域名として残されています。

この中条氏の祖は
源義朝の子孫の八田知家です。源氏の流れをひく名門の中条氏は、鎌倉幕府の執権北条氏御家人として代々要職にいました。
そして父の景長に次いで(1354年)に衣(挙母)金谷城主となった
中条長秀は剣豪として名を馳せた人物です。
元々中条氏には「
中条家平法」と言う武芸の術が伝わっていました。
金谷城主を勤めながら剣豪として修行していた中条長秀は、その「中条流平法」を基にして自身が得た技術を加えて改良した「
中条流兵法」(剣術)を立ち上げました。
この
中条流は日本の一刀流剣術の元となる流派で、後世には「一刀流」「小野派一刀流」など多くの流派が中条流を基盤として発展してゆきました。
中条流を基にした流派の出で有名な人物だと、小野派一刀流の祖の
小野忠明、巌流島の決闘で散った佐々木小次郎などはその一例です。
幕末でも中条流剣術を使う人が多くいて、
新撰組でも中条流を使う隊士がいたそうです。



             
<中条氏の衰退、そして変わる城主>

剣豪として名を馳せた中条氏も時代が経つと共に勢力を弱めていきます。
南北朝時代に起きた内乱では、中条氏は足利尊氏について戦った為に鎌倉幕府同様に地頭職奉公衆の地位を維持しました。
しかし永享四年(1432年)時の
将軍足利義教に嫌われて没落してからは衰退の一途を辿ります。
永享12年には再興を許されて復活を遂げますが、
被官衆(副官の様な職)達の勢力を抑えられなくなります。
加茂郡寺部(愛知県豊田市)の鈴木氏は高橋郷内に寺部城を築城して独立状態になり、広瀬(愛知県豊田市)の三宅氏(後に金谷城主になる)も台頭してゆきます。
結局、戦国時代頃の永禄年間には金谷城周辺を治める一領主となってしまいました。
そして永禄四年四月(1561年)、
織田信長尾張統一戦に巻き込まれて金谷城は落城し中条氏は滅亡しました。
その後金谷城は織田氏の支城の一つとして、衣(挙母)支配の象徴的存在としてあり続けました。
城主は中条氏→
与語久兵衛正勝(織田氏挙母城主)→平松与左衛門田中吉政(岡崎城主)→三宅康貞(挙母藩初代藩主)となりました。
挙母支配の象徴的存在であった金谷城ですが、
徳川政権下で挙母藩主として三宅康貞が入城した頃には老朽化が激しくなり住むには適さなくなりました。
その為新たに城を築城する事にし、
矢作川の近くに佐久良城(桜城)を築城した為、金谷城は廃城となり長い歴史に幕を閉じました。



               
<明智新八、思い書き>

私は幼少の時から家族で豊田市街地に買い物に行く時には、必ず上挙母を通過していたので、この周辺には愛着があります。
現在でも七州城を見に行く時や、近くにある大型店に買い物に行く事があるので、上挙母にはよく出没しています。
しかし意外にも金谷城に足を運んだのはつい最近なのです(汗)それまでは縁が無かった城でした。まさに灯台下暗し!ですね。


金谷城のある場所は名鉄三河線の上挙母駅から歩いて5分くらいある住宅地の村社
勝手神社の敷地内に碑が建っていますので、分からない時は駅にある周辺の地図を参考にされると良いと思います。

金谷城を探索して思ったのですが、住宅地での城址を探すのは結構難しい時があります。
ここでアドバイス!
城址は結構、神社やお寺になってたりしますので、探索時に迷った時には迷わず訪れてみるの良いかも知れません。そして寺院に訪問した際は是非とも手を合せて武運?を高めましょう!






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