酒井忠尚の家臣が建てた八幡社

土橋八幡社

創建時期    1、永禄五年(1562年)
        2、宝永二年(1705年)

祭神       誉田別尊

         金刀比羅社、稲荷社など

場所       愛知県豊田市土橋町

愛知県豊田市にある東名高速豊田インターに近く、名鉄三河線土橋駅がある住宅地の中ほどにある八幡社です。祭りの時期は周囲から人が多く集まり、選挙の時には敷地内の公民館に人が集まったりと、小さいながらも賑やかな八幡様です。
近くには主要国道の
国道155号線が通っていて商店が多く、交通アクセスは最高です。
土橋地区は逢妻男川(あいずまおがわ)と逢妻女川(あいずまめがわ)に挟まれた地区で、低地な為に昔は水害が起きやすかった地区です。



              
<土橋八幡社の歴史>

永禄五年(1562年)徳川家臣の酒井氏は新たな農地と村を開墾する事になり、農地開墾に適している逢妻川流域を開墾する事となりました。
当時三河国碧海郡
上野郷(豊田市上郷町)から逢妻川流域を支配していた、上野上村城主酒井将監忠尚は、新たに開墾する土橋村(当時は鴛鴨村(おしかもむら)の一部です)に男山八幡社から分霊を勧請した八幡社を建て、神殿や拝殿を寄進しました。現在の土橋八幡社の前身の社です。当時はまだ小規模の八幡社でした。
ちなみに土橋の名の由来は、逢妻男川に橋を架けた際、
土で出来た橋を架けたからだと言われています。


八幡社と言うのは武家を護る社です。
土橋地区を開墾して酒井忠尚が自ら八幡社を建立した背景には、将来的には土橋を軍事拠点化させようという考えがあったと思われます。
その為に開墾に際して、腹心の
須藤、須賀、兵藤氏の三奉行を開墾奉行として派遣し、監督させました。

開墾はうまくいったものの、翌年の永禄六年(1563年)に
三河一向一揆が勃発し、事態が急変します。
一揆側についた酒井忠尚は善戦するも、徳川家康榊原小平太たちの奮戦により上野上村城は陥落。忠尚は駿河の今川氏真を頼って逃亡してしまいます。
城主の逃亡により困った須藤、須賀、兵藤氏の三奉行はそのまま自分達が開墾した土橋村に
帰農(農民になる事)して身を隠す事になったそうです。
確かに今も土橋には須藤さん、須賀さん、兵藤さんが多い事に驚きます。


江戸時代に土橋は
碧海郡から加茂郡に移り、同時に鴛鴨(おしかも)村から完全に独立し、土橋村になりました。
宝永二年(1705年)に当地にあった八幡社の規模を大きくしました。新たに八幡社を改築し、同時に
金刀比羅社秋葉社稲荷社天王社御鍬社を創建し、ここで現在の土橋八幡社が完成しました。

土橋村は江戸初期には
本多弾正巨勢大和守の相給村となり、本多氏領は151石余で巨勢氏領は135石余だったそうです。
その後、寛永十五年に本多氏領は
刈谷藩領となり、巨勢氏領も西尾藩領となりました。
その後はコロコロと領主が変わり、
旗本稲垣数馬が知行したり、幕府領(天領)沼津藩領、旗本一色氏領伊保藩領と目まぐるしく領主が変わりました。

土橋村の村高は寛永年間の時には287石余(「寛永高附」より)で、元禄時代には295石余(「元禄郷帳」より)、天保年間には299石余(「天保郷帳」より)です。

幕末の慶応三年には土橋村にも「
ええじゃないか」の影響が波及したそうです。
明治維新後、土橋村は挙母町から挙母市を経て、現在は豊田市の一部になり、発展しています。



              
<明智新八、思い書き>

私にとって土橋八幡社はたくさんの思い出があり、同時に私の郷土史研究の出発点でもあります。
幼少の頃は町の盆踊りや獅子舞などで随分とお世話になった所です。しかし、歴史を研究して違う視線でここを調べた時、随分と色んな発見があった場所でもありました。
灯台下暗しとはよく言ったものですが、本当にそう言う事はあるんだな〜と、しみじみと再発見させてくれた八幡様でもあります。




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